墨がのる  墨のりが悪い ??? 紙トップへ みなせトップへ

書家や水墨画家は
「今日は墨のり=墨の“のり”=がよい。気分良く書ける。」 
「墨のり=墨の“のり”=が悪いなぁ。紙を変えてみようか。」などとよく言います。

「墨のりがよい」 「墨のりが悪い」とは紙と墨の物理的な関係ではなく、書き手が表現しようとする作品に使用する墨・紙が書き手の感性・その時の作風と如何に適応しているか(適応させることが出来ているか)の関係を表します。
書き手が紙面に筆を乗せ墨を置く、その墨が書き手の意図通りに、或いは望んでいた以上の状態で紙に浸透し、撥墨の状態と範囲が大きい。滲み状況も好ましい。
表現手法により、墨は計算とおり紙面に留まり浸透して行かない。紙面に乗せた墨量の墨色変化が作品に効果的に現れそうだ、・・・。
これらの状況を「墨がのる」「うまく墨がのる」などと言います。
「墨と紙」の相互関係であるのにも関わらず主に「紙」の状態により「のる」「のりにくい」「のらない」の判断が為されます。
これは、「墨」を紙の状況、書き手の好み・作風に合わせ調整し「墨のりがよい」と書き手が感じるように使いこなすには「墨使用の基本」に始まる多くの経験を必要とし、一所懸命勉強してきた積もりであっても作風に適した?を選び、選んだ?状況を的確に順応させ、今書こうとしている作品の方向、そして使用している紙に応じ「墨のりがよい」と感じる調整をするには、多大の困難が伴う、これら作者の試行錯誤に加え、多くの割合で「作者の腕より目が一歩先を進む」。このことに紙質の巾の広さも加わりが「この紙は墨のりがよい」などと「紙」を中心に表現する「作品の出来映え」の効果を表現する流れになった、と考えられます。 
  ※「作者の腕より目が一歩先を進む」、これが常にあるから多くの作家は切磋琢磨を継続出来るのです。

書き手個々のその時々の感覚に、
書き手個々のその時々の作風の表現に、
その作家が使用している「墨」と「紙」 がマッチしていると感じ、
その感じる度合いが高いほど「墨ののりがよい」との表現につながります。

書こうとしている作風に「墨の入り方」が今ひとつ向いていない、
つまり、書き表したいと考える表現がうまく出ない(出せない)と感じるとき、
「墨のりが悪い」との言い回しになります。

同じ墨と紙を同じ書き手が使用し、異なった作風をつくろうとするとき、
「墨のり」が「よい」「悪い」の判断は、その作家にとって作風に適合した表現が出るか(出すことが出来るか)、
出ないか(出せないか)の結果と判断により「墨のりがよい」「墨のりが悪い」と異なる評価になります。

物理的に紙の表面に墨が乗り、紙内部に浸透して行かない状態で作品を制作する時、墨を基調とするオリエンタルアートの、特に書の世界では「紙」に「墨をのせる」と表現される例が多くなります。
これら滲み止めを完全に施した紙=平安朝からよく利用されている料紙や中国加工紙の代表のひとつである蝋宣紙など=に、墨の濃淡、渇潤などを伴う変化を付け書いて行くことを「墨を乗せる」と言います。

「吸い込みのない紙に水分を置けばその水分が紙の表面に乗る」状態、
この受動的な「墨が乗る」ではなく、書き手の意志により「その乗せ方、墨の量の多少などを調整、書き手が意識的に墨量を決め案配する」のですから、受動的な「墨が乗る」ではなく「墨を乗せる」との書き手の意思の存在を表す表現になったのだと考えられます。
この場合も「墨の乗り方」が書き手の意志に合致する状況を「墨がのる」と言います。

墨ののりがよい、墨ののりが悪い、墨のりのよい紙、墨のりの悪い紙、・・・・、
これらに決まった範囲・定義はありません。書き手、そして描き手の感覚・作風などにより無限の範囲を持つのです。

以上で触れましたが「墨 “が” のる」と表現することがあります。
以下の「墨が乗る、乗らない」の意味は、書・水墨画などの作品効果に対して作家が使う「墨がのる」とは根本的なところから意味合いが異なります。
人の「手」などの「脂分」が紙面に付き、或いは当初から紙面に油性分などが付着し、或いは含まれ、その部分に置いた墨や水分を撥じく(=付かない=)ときがあります。
この状態を「墨が乗らない」と言い、紙面に水分を撥じく現象が無く墨は紙面の乗せようとする箇所に付く状態を「墨が乗る」と言います。作風・作品の出来映え・作者の意図とは関係なく「紙面に墨が乗っている=付いている」状況を示します。
以上簡単ですが・・・・山口j一(山口そう一)
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