11 端渓・端渓硯・端硯
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坑が掘り進まれ、坑内の至る所に掘削進行中の洞や捨てられた洞、試掘をしてみた小穴などが出来ます。
それらには掘った坑内の方位・洞の状態などからいろいろな名前が付きました。
有名な大西洞や水帰洞もその一つです。
清代中期に開抗された大西洞も掘削がすすみ更に下部の水帰洞へと掘り進まれて行きます。
大西洞の原石が採られたところは当然の事ながら採掘した石の嵩に等しい空洞になります。この空洞が大西洞と呼ばれ、そこから採掘した原石で作硯した硯が「大西洞」と呼ばれます。
また、大西洞から採掘された原石による硯を「大西洞、或いは大西洞水巖」と呼ぶ、と理解されていますが現実には大西洞の代表的な石紋を伴う石質の石=硯のみを「大西洞、或いは大西洞水巖」と認定し、大西洞から採掘された石であってもこの認定範囲以外の質の石=硯は大西洞とみなされていないのが現実です。
更に、1970年の新導坑開設により旧時代の採掘最深部、大西洞下部に位置する「水帰洞」で止まっていた採掘は水帰洞をかすめ通り過ぎるかたちで深部へ至る新導坑により一気により深い下部まで楽に入坑できるようになりました。
この箇所から大西洞にのみ存在したはずの、そして水帰洞にのみ存在したはずの石質と石紋を伴った原石が大量に掘り出されました。そしてこれらの内「大西洞」「水帰洞」と捉えられていた石質を持つ石=硯それぞれを「大西洞」「水帰洞」の高名さを利用し「大西洞」「水帰洞」とし流通させている販路もあるようです。
そこから採れる石には、まさしく旧坑時代に採られた大西洞や水帰洞に匹敵するとも言える石質なのです。品質から呼称を付けるとしたら大西洞・水帰洞と表現しても何ら異存はない優れた石質なのです。
つまりは「大西洞」の硯、「水帰洞」の硯、・・・の石質はこうである、ああでなければならない。・・・等々の定説は限られた資料しかなかった旧時代の、過去の意見であり実際との差は非常に広いもの、と言えます。
繰り返しになりますが
端渓に関する伝承では、
「大西洞からはこの質の石が採れるのです。
水帰洞からはこの質の石が採れるのです。
老坑から採れる石はいずれも素晴らしいものですが、
採掘する老坑内の洞や層によって石の性質は違うのです。
老坑内の採掘場所が同じだと、品質の上下はあっても性質は大体同じなのです」
の意味を記述しています。
今、実際に掘り出している旧坑水帰洞の真下に位置する場所から採られている老坑石を見る限り、大西洞と言われていた、或いは水帰洞と言われていた、老坑各洞特有の性質を持つ石が混在した状態で同時に採掘されているのです。
この現実を知ってしまえば、
老坑のどの部分から採った石だからこの性質の石が採れる、又は採れたという伝聞は、やはり誤りであることは、まず間違いのないことなのです。
今ここ⇒新導坑による採掘最深部から掘り出されている石には、大西洞、それも代表的な大西洞と言われている性質を持つ石や、水帰洞そのものといえる性質の石などが同時に採掘されているのです。

この端渓渓谷は、西江のま南に位置します。
西江羚羊峡の南を「峡南」と呼び、峡南の端渓を含む一連の山地は「斧柯山」と呼ばれ、老坑が開抗されるはるか以前から、数多くの硯坑が開発されていたのは先に述べたとおりです(地元では斧柯山と言わず「爛柯山」と呼ぶのが普通です)。

これら峡南から産出する硯は 西江を挟んで北に連なる山々、この山々を「北嶺」と呼んでいますが
この北嶺一帯から出る硯と併せて、既に、「端硯」又は「端渓硯」と呼ばれていました。
当時端渓の言葉は、今言う端渓渓谷だけのことでなく広く端州全体の意味に使われていたようです。
呉蘭州等の時代では、端渓は広義に使用され端渓渓谷だけでなく広く端州全体をあらわしていると理解できます。
端渓渓谷で新坑が開抗され、特に秀麗な硯材が産出されだしたとしても、端州全域から産出する硯に対しての 「端硯」「端渓硯」という定着した呼称があり、新たに開抗されたその石が、いかに秀麗だからとしても、その石だけを「端渓硯」と名付けるようなことはなかったのです。
それは、端州から出る硯の一坑で、端渓の岩山の下層に位置する坑から採れる「下巌石」と呼ばれたのです。
中国では、日本で言う「端渓」又は「端渓の硯」のことを 古くは「端硯」「端渓硯」と呼び、
産出範囲の極端に狭い、端渓渓谷の石だけでなく、広く端州に分散する各硯坑から出る硯の総呼称としていたのです。
現在の中国では 「端渓」とか「端渓硯」と言って説明を求めても、文房四宝の関係者ですら、何のことか判らなくなっています。
いつの頃からか、昔の肇慶一帯のことを端州とだけ呼ぶようになり、 この地から出る硯も端硯とだけ表現するようになったのです。
文房四宝の関係者の中でも「日本では、端硯のことを端渓又は端渓硯と言うのだ」と知っている一部の人にだけにしか、日本流の呼び方「端渓又は端渓硯」は通じないのです。
今の人は昔の肇慶を端州と呼びますが、その当時は端州とも言い、端渓渓谷を広義に解釈して 端渓とも言ったようです。(この本では日本流の表現「端渓」を硯の意味としても用いました)
老坑も、坑仔巌も、麻子坑も、宋坑も、梅花坑などを含めて
端州から採れる石、採れた石はそれらをまとめて端硯・端渓硯と表現したのです。

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