4 坑仔巌
  硯の頁トップ 坑仔巖 『実用彫』 一覧の頁 みなせH.P.トップ
老坑の隣の坑「坑仔巌」では20人強が働いています(契約に、そして端渓原石採掘の実際をこの目で確かめたいと肇慶行を希望される方々を、多いときは月に4〜5回を超えるご案内していた、その当時の最高訪問回数「一か月に4回を超える」肇慶行の時期もありました。
端渓諸坑の採掘職人は毎日近辺の自宅から通ってくるのとは対照的に、老坑で働く採掘職人達はほぼ全員が現場の端渓硯廠に住み込んでいました。
老坑と坑仔巌の二坑は、直線で100メートル強、 高低差は約140メートル、
徒歩でゆっくり登って15分の至近距離で老坑坑口からも坑仔巌がよく見渡せます。
 
墨色の広がりや深みなどを併せ言う撥墨の佳さや磨墨感(磨墨性)の佳さを伴った硯石比較で言わず、一般的な感覚として言えば、老坑採掘の原石と坑仔巌坑採掘の原石外観はおおむね同一の範囲と下にあると言え、見た目、墨の摺り具合ともにどちらの坑から採掘された石なのか区別のつけにくい石も両坑から採掘されます。
両坑は、鉱物学的にも地質学的にもよく似た石層ですが天然の産物ですから、どちらから採れようと一点一点少しずつ違うので、老坑と坑仔巌は違う石質だとの論理も否定しきれない道が残されています。
この二坑は、採掘入口がほんの少し離れているだけなのに加えて、外観からも確実に区別することは困難なことが多いので、現地の硯鑑定に携わる専門家でも老坑と坑仔巌を混同したり、取り違えたりする事がたまには起こります。
信用第一、継続取引が大事と考える工場では、どちらの坑から出た石か確認できる体制を作り、坑から工場に運び込んだ時点で、どちらから出た石かを 明確に区別できるようにしてから硯に仕上げます。
区別する前に混ざってしまうと、どちらの坑から採れた石か見極めるのが難しい時もあります。採掘時の取り組み姿勢が主原因なのですが、坑仔巌から採った石より老坑から採った石のほうに特別高品位の原石がずっと多いこともあり、市場では老坑から採掘した石を坑仔巌から採掘した石より上位に置き、実際に流通する価格も3倍以上開くことが多いのです。
坑道は、坑入口から奥へホボ水平
に続きやがて下方へ向かう
   .
坑仔巌入口
撮影位置は坑入口から10m強坑奥へ進んだ当り。
この箇所から鉱脈に沿い更に20mほど掘り
進み下降へと採掘の向きを変える。
    
老坑坑口から巌坑口方向を臨む
老坑坑口前から坑仔巌を臨む
★ 端渓にかかる記述の中には、坑仔巌坑が位置する山の高さを坑仔巌坑の位置と
  みなすかのような記述も見られる。
  西江水面より20m程度高い老坑坑口と坑仔巌坑口の高低差は100mほどで、
  採掘現場見学行に参加された方々のホボ全員が坑仔巌坑へも登られ、季節により
  一部の方は入坑もしていただき採掘最先端箇所をご覧いただいた。
  坑口から水平に10数メートルほど掘り進んだ後、鉱脈に沿い下方(老坑坑脈方
  向)へと掘り進められている。)
老坑の石質は、坑仔巌坑採掘の石の中でもとりわけ優れている石=平均的な老坑石質に近い、と考えて下されば大体正解です。
これが、坑仔巌坑石を悪用し老坑とし出品する工場や販路が後を絶たない理由の第一です。
これら石質の差は両坑の原石にあるのではなく“採掘方法”と“検査の厳しさ”の差にあるのです。坑仔巌では、ごく小規模発破を使用して原石を坑から取り出します。
細心の注意をし、至上の原石層のその石質を持つ部分だけを採掘する老坑職の名人技ではなく、発破で崩した原石をまとめて坑から取りだし、その中から佳いものを探す、少々荒っぽい採掘です。
この採掘石層の選び方の差と、老坑に従事する職人の名人技が、同一地質の坑で鉱物学的には基本的に同一地質であるにも拘わらず、「老坑の硯石」「坑仔巌の硯」として掘り出した石の分析結果に差を生じさせ、硯にとって一番重要な磨墨力と撥墨の在り様に大きな差を見せるのです。
硯として根本的性能に差を生じさせる老坑原石採掘職人と老坑作硯職人の目の確かさと頑固さが、それだからこそ得られる老坑硯の信用と高品質、そして彼らの高収入につながっているのです。
と言うことで、この斧柯山一帯の山全体が、更には斧柯山周辺の一部域がよく似た石で形成されているということになります。
 更に、北嶺の白綫巌なども、広東省肇慶市端硯地質調査報告の石質分析結果、坑仔巌と同一と表現できる地質なのです。つまりは、峡北北嶺に至るまでこの地質が点在しているということになり、老坑に従事する頑なな職人さんたちが健在なら、今の老坑の高品質が失われる心配は、まず起こり得ないのです。<br>
<b>※</b> 資材・素材の在り様の面からは「老坑原石の枯渇」は「起こり得ない」であり、政治や経済界を含めた採掘にかかるゥ環境から老坑の、それも硯として高品質な硯材の、1972年に再開された今回一連の採掘は最終期を迎えました。
1050年に採掘が始まった(宣統年「高要県志」記録)老坑は、判明しているだけで何度も何度も開・閉坑を繰り返しています。
近代では、清末の光緒15年(1889年)に再開抗され、少量の原石を採掘しました。が、清朝末年(1911年)には既に閉坑しています。
その後暫くの空白期間をおいて1972年、人民政府の指示のもと旧坑の採掘が再開されました。
半世紀以上も老坑採掘が見送られてきたのは、激動の時代背景が大きく影響を及ぼしたのです。
この旧入口から入坑する1972年の再開から1980年までの10年弱採掘。
同年、生産=採掘増と採掘職人の労働条件緩和を目的に開発がすすめられていた老坑採掘箇所へ至る新入口が開坑、その操業開始を待って(旧坑と呼ばれる)旧入口は閉鎖されます。
(新坑と呼ばれる)新入口が開かれてからは一度の閉坑もなく、継続して採掘されています(20から21世紀にいたる時発令された採掘禁止令までの間。& 西江増水期と1998年11月の原石盗難を理由とする1999年2月に至る一時的な管理体制を再検討のためのと説明された休坑期を除く)。
 補足 
新入口から入る採掘現場と旧入口から入る採掘跡は内部で繋がっている同一の場所なのです。
原石を掘り出している最前線は次々と岩を採掘し地上へ運び出すのですから当然のことながら採掘に連れ空洞になっていきます。
採掘が続いていくその最先端がいつも老坑採掘の現場なのです。
新坑と呼ばれる“新入口”から入坑しても、“旧坑”と呼ばれる旧入口から入って もその時点の採掘現場は同じなのです。古い玄関が狭くて使い勝手が劣ってきたので新しい玄関を作った、これと同じことなのです。
この旧入口から入坑する1972年の老坑再開から1980年までの10年弱採掘。
同年、生産=採掘増と採掘職人の労働条件緩和を目的に開発がすすめられていた老坑採掘箇所へ至る新入口が開坑、その操業開始を待って(旧坑と呼ばれる)旧入口は閉鎖されます。
(新坑と呼ばれる)新入口が開かれてから閉坑は一度もなく、継続して採掘されています(註:20から21世紀にいたる時期に発令された採掘禁止令までの間。そして、西江の増水期と1998年11月から1999年2月に至る「原石盗難」を理由とする管理体制再検討のためのと説明された一時的な休坑期を除く)。
補足: 新入口から入り至る採掘の現場と旧入口から入っていた採掘跡は内部で繋がっている同一場所なのです。原石を掘り出す採掘最前線は次々と岩を掘り地上へ運び出すのですから、当然のことながら採掘跡は空洞となり連なります。採掘が続くその最先端がいつも老坑採掘の現場なのです。新坑と呼ばれる“新入口”から入坑しても“旧坑”と呼ばれる旧入口から入っても、その時点の採掘現場が採掘の最先端なのです。


旧坑(旧入り口)と新坑(新たな入り口)の関係は、古い玄関が狭く使い勝手が劣ってきたので新しい玄関を作った、これと同じことなのです。
同一の採掘場所へ入るための新しい入り口を新坑、古い入り口を旧坑と呼んだのが「新坑と旧坑は違うところではないか?」との誤解を生み、また一部はこの誤解を利用し、新坑と旧坑は石質が違うとの風評を広める一因に直結したようです。

以下は、
肇慶市の当該機関が調査した老坑と坑仔巌などの状態や成分などの分析資料の抜粋、広東省地砿局提供 広東省肇慶市端硯地質調査報告の原文を和訳したものです。
坑内

層は15度〜30度の傾斜角で層状かそれに近い形状で分布。
豆の鞘や小型のレンズのような形状をし、浸食されたかの如き比較的平板な面状に分散する。砿層下部の灰色の泥質岩には押し出されたような灰色と黒色の鉄質の細長い模様がある。
成分は主として鉄水雲母を含んだ頁岩で、他に泥質岩や泥質板岩もある。
坑仔巌
層状に近い形状で30度から35度の傾斜角で分布する。
形は小型のレンズのような斜層を成している。また灰色泥質岩と赤紫色の鉄分を含んだ泥質頁岩が交互にリズミカルに層を成している。
成分は主として鉄質を含んだ頁岩で、他に粉砂を含んだ泥質岩もある。
つまり、老坑は山裾に沿う下部から上部へ山の隆起角度に沿て層を形成し、山裾では15度、上部になるほど30度に近い急角度になり、断続しながらつながっている。
坑仔巌は老坑から続く石層が山の内部で断続しながら延びていく。採掘の位置が山の中腹より上部にあるので採掘層の角度は35度と更に増していく。
坑仔巌と同じ山の、頂上に近い東南斜面に古塔巌坑があります。
  (老坑は山の北西山裾・坑仔巌は北西斜面の中腹です)
 古塔巌の成分も鉄質を含む頁岩が主で坑仔巌とほぼ同等の性質をしています。
この旧入口からの入坑が開始された1972年の再開から1980年までの10年弱採掘。
同年、生産=採掘増と採掘職人の労働条件緩和を目的に開発がすすめられていた老坑採掘箇所へ至る新入口が開坑、その操業開始を待って(旧坑と呼ばれる)旧入口は閉鎖されます。
(新坑と呼ばれる)新入口が開かれてからは一度の閉坑もなく、継続して採掘されています(20から21世紀にいたる時発令された採掘禁止令までの間。& 西江増水期と1998年11月の原石盗難を理由とする1999年2月に至る一時的な管理体制を再検討のためのと説明された休坑期を除く)。
補足:新入口から入る採掘現場と旧入口から入る採掘跡は内部で繋がっている同一の場所なのです。
原石を掘り出している最前線は次々と岩を採掘し地上へ運び出すのですから当然のことながら採掘に連れ空洞になっていきます。
採掘が続いていくその最先端がいつも老坑採掘の現場なのです。
新坑と呼ばれる“新入口”から入坑しても、“旧坑”と呼ばれる旧入口から入ってもその時点の採掘現場は同じなのです。
古い玄関が狭くて使い勝手が劣ってきたので新しい玄関を作った、これと同じことなのです。



この同一の採掘場所へ入るための新しい入り口を新坑、古い入り口を旧坑と呼んだのが新坑と旧坑は違うところではないか?との誤解を生み、
また一部はこの誤解を利用し、新坑と旧坑は石質が違うとの風評を広める一因に直結したようです。
老坑の新入口と旧入口の坑口の距離は20mほどの至近距離で、新坑と呼ばれる新入口の坑口は旧坑口より10メートルほど高いところにあります(老坑付近鳥瞰図)
入り口からの斜坑は大凡25度(体感的には40度ぐらいの急坂に感じられます)の急角度で、真っ直ぐに下へ、採掘の最前線へと降りていきます。
急勾配に加え滑り易い条件が揃っていますので底まで階段状に造られ、用心さえすればほとんどのにとって出入りが困難ではないほどに降り易く造られています。

斜坑の長さは約150メートル、斜坑を降りたところの深さは 70メートル弱です。
階段状の斜坑の中央には、巻き上げモーター式のトロッコが備えられ、原石は坑底からこのトロッコで地上に運ばれます。
ほんの少し前までの旧坑時代は、採掘原石を竹や棕櫚の籠に入れ少しずつ少しずつ、全て人力によって地上へ運んでいたのが嘘のようです。
老坑採掘現場へのこの坑道は、両側に手が届くほどの巾しかなく、場所によっては頭を低く下げて通り抜けます。
底に辿り着くと、坑の大部分はほぼ直角に左に曲がり、 旧坑(採掘跡)の方角に向かいます。
この斜坑の降り立った所から5メートル位高いところ、斜坑の途中に水帰洞などの旧採掘跡とつながっている部分があります。新入口からの導坑途中で旧入口から入っていた頃の最深部「水帰洞」がつながっているのです。

 斜坑を下りながら左を見ると(懐中電灯でも充分ですが照明が必要)目前に旧採掘跡への連絡口があり、崩れないように木の柱で何ヶ所も補強されています。
 天井が低くなっていきますが、屈んでいけば旧坑と呼ばれる部分に入れます。
 でも、坑として危険な状態ですから入坑はしない方がよいと思います。
 職人さん達も危険だから必要時以外は入りませんし、
 無理矢理入って、 もし事故でもあれば、入った本人はともかく、
現場の人たちに多大の迷惑を掛けることになります。
 
 そして、時が流れ五億年も経てば、人骨端渓として珍重されることになります。
  「天然記念物人骨端渓」になってみたい方は 旧採掘跡(旧坑)へ入ってみて下さい。  
  • 前述しましたが、1999年3月9日の老坑調査行では、新坑口から入っていくと内部で旧坑と連結し、旧坑そのものに入れるようになっています。
      1998年11月の老坑原石盗難事件の影響で、老坑の管理体制を見直ししている間は採掘を中止していましたが、手持ちぶさたの職人達が旧坑と自由に出入りできるように坑を広げてしまったのです。この時(1999年3月9日)ご参加の方々は全員が旧坑と呼ばれる採掘跡に入り坑の状況を調査されました。


新坑と旧坑の接合部
この向こうが旧坑の最深部で水帰洞につながります。

次(原石の厳しい検査)へ
「 端渓のまことを伝えたい 」のトップへ