13 主な端渓(硯)産出坑
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 「端硯」の主な産出坑は
峡南に老坑、坑仔巌、麻子坑、古塔巌、宣徳巌、大坑頭、朝天巌などの有名坑が有り、
そして、20世紀も末を迎えようとするころからは、老坑や坑仔巌、麻子坑などとよく似た石を産出している≪沙浦≫地域の一角にある「自沙浦山」。
羚羊峡の南に位置する峡南域の東サイド。即ち峡南斧柯山東裾野の一角に広がる沙浦坑区。
この坑区の「自沙浦山」に「緑端」があります。緑端は伝統的な北嶺の「緑端」に外観はそっくりな緑端を産出しいます。 ※  (緑端は宋代に開坑された伝統ある坑で元々は北嶺の坑を指し良質の緑端を産出していました。)
沙浦坑区は不思議な地域で、それほど広くもないこの坑区から老坑、坑仔巖坑、麻子坑、宋坑、梅花坑、緑端(緑石端渓)・・・等々の有名硯と「外観≒見た目」だけ非常に似通った様々な硯石が採掘されます。
1980年のはじめ頃、外観が「宋坑」にとても似ている沙浦坑区採掘の原石で作硯した硯は「二格青」「紫端渓」等と名付けられ、「宋坑」などの有名端渓坑名ではなく「二格青」「紫端渓」との本来坑名でほんの数年間流通しました。
当時は宋坑と「見た目が似ている硯石」との認識で「端渓」硯とは捉えられていませんでした。
この「二格青」「紫端渓」は当時から既に「広い意味で端渓だ」、「イヤ。端渓坑区ではないのだから端渓ではない」との論争があったのですがこの時代では「端渓に近い石ではあるが端渓ではない」との評に落ち着いていました。
   端渓(端硯)諸坑略図
北嶺の緑端(緑石端渓)本来坑ではなく 沙浦坑区で開発された南嶺の“緑端坑”へは、老坑へ至る船着場から大凡5キロメートル東のフェリーに乗って、西江を渡り、車で坑近くまで行き、少し歩きます。
坑は斧柯山東サイド(後背面)の自沙浦山に散在しているので、下車地点から近い坑なら徒歩で約30分、山の上の坑は少し遠くて2時間程度掛かります。
より良い緑端坑をと、一帯を探石していた坑夫が、麻子坑・老坑などに外見がよく似た石質の新坑を掘り当てました。
これらが1990年前から出回る沙浦坑石です。 (半辺山???
端渓(端硯)諸坑略図
老坑 坑仔巌 麻子坑・・・石質分析表
 
 緑端は、今も峡南の緑端からではなく峡北北嶺から産出されている、との誤解が一部日本にはあるようですが、北嶺の硯坑は伝統的に「緑石」と呼ばれ峡南の緑端とは違うのです。
 北嶺の緑石巌は、既に1970年代前半にはその存在が忘れられ、1999年の採掘職人では既に現場がどこにあったか定かでない状況だつた、が現地採掘関係者の現実です。
 資料から、北嶺のいずれかの山の上部にあったと推測されるに過ぎません。

 北嶺ではその他、宋坑、 梅花坑、 白線巌、 結白巌などが有名です。
  2006年時点では北嶺は「宋坑」だけを採掘しています。
 
2006年1月肇慶行、この時点で「北嶺」で採掘されているのは「宋坑」のみ、
「梅花坑」は1970年代既に南嶺の麻子坑坑口よりやや南に新坑を開きそこで採掘されている。
北嶺にあった旧の梅花坑周辺は住宅地に変貌を遂げているとのことです。
北嶺で採掘されていた「白線巌」「結白巌」等については聞き漏らしましたが、
「北嶺」で採掘されているのは「宋坑」のみとのことですので多分現在は採掘していないのだと思います。
「宋坑」も、その坑周辺が高速道路の充実・鉄道の高速化などにより広州市のベッドタウンと化し、「閉鎖」されました。物理的に採掘出来なくなっています。   ≪宋坑閉鎖の詳細へ≫
2007年9月10日到着情報 ⇒ 端渓各坑 全坑≪封鎖≫中 です。
 
?????老坑などの鉱脈が尽きた????
 
 『老坑の鉱脈は尽きた』との根も葉もない流言が飛び交う端渓事情です。
2005年前後から「老坑」を筆頭に相次いで端渓採掘坑の強制閉鎖、又は採掘の強制中断が実施されています。
広東省肇慶市人民政府が『老坑水没閉鎖』と言う強硬手段を以て老坑を閉鎖し盗掘を防がねばならない現実
『老坑鉱脈は健在である』ことの裏返しであり『老坑鉱脈は尽きた』の流言を明確に否定するものと言えます。
 
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端渓(???) 産出坑 「半辺山坑???」
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「半辺山」??? 「半辺山坑」???
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端渓硯産出地&産出坑 「半辺山」 「半辺山坑」 とは???  
肇慶に残る古資料、端渓産出坑に関する古資料を集め1998年に出版された「寶硯風華録」に以下が記されています。
肇慶現地 端渓硯廠責任者(永年端渓に従事してきた古老を含む)半辺山(坑)談
端渓硯産出地としての & 産出坑としての「半辺山」「半辺山坑」とは???
肇慶に残る端渓産出坑に関する古資料を集め1998年に出版された「寶硯風華録」に以下記されています。
坑名: 半辺山諸岩
場所: 爛柯山一帯に散在する端渓産出諸坑の東側、燗柯山中腹にあり大秋風、小秋風、獣頭獅子、黄坑、桃花河頭新坑から成る。
開坑: 宋代以前
構成: 坑仔岩類に属する
歴史における登場: (米 元章)《端州岩石》 
半辺岩は山の中腹に在り。・・・略・・・
宋《端渓硯石譜》
斧柯山下、少し東側にあり、大秋風、小秋風、獣頭獅子、桃花河頭、新坑、黄坑等、著名である。・・・略・・・。
宋 叶越《硯譜》
山道より少し東、半辺山諸岩に至る、山の麓也。
  
肇慶現地 端渓硯廠責任者 談 (他硯廠関係者談、端渓に関わる古老達の談を含む)
山口さんは何度も来肇し「半辺山坑」について調べていた。
少しでも半辺山に係る資料が無いか、それを知るものはいないか・・・を探し回っていた。
2011年4月の来肇時には以前にもまして半辺山坑について尋ね廻っていた。

私は他の肇慶端渓関係者と同様に「半辺山坑」は「採掘坑が特定出来ない硯石に便宜上与える坑名で、端渓鑑定者にとってはとても都合のよい坑名」と教えられ、そう捉え、そう説明してきた。
しかし端渓に連なる仕事に従事する責任者の一人として半辺山坑について調べたいと思うようになり半辺山坑に関する古記録を捜す事にした。
1年かかったが見つけた。ヤット「半辺山坑」について信頼に足る古資料を見つけた。

多くの古記録を探し回って見つけ出したこの資料でも半辺山坑がいつまで開採されていたのか等々を掴む事は出来なかった。が、過去に「半辺山坑」が在った事は判った。

資料には≪斧柯山(現在の現地名“燗柯山”)、茶園山、将軍山は同じ渓に在り坑名「茶園坑」は燗柯山硯坑や将軍坑より高いところにある。≫などと半辺山坑群の状態を説明している。

この古資料を読む限りこれら坑群全体を指して半辺山と称すると解釈すべき記述の流れであり、半辺山を「半辺山」と言うひとつの山と解するには無理がある。
古資料を熟読し熟考した結果、現在の燗柯山東方地域の中腹に“半辺山諸岩(坑)”と呼ばれる採掘坑群(⇒“岩洞=坑群)があり、坑群は大秋風、小秋風、獣頭獅子、黄坑、桃花河頭、新坑から成っている”と捉えるのが一番正解であると言い得る。

山口さんや我々端渓の現業者が探し求める資料は端渓硯の価値の流れと歴史的な実態。
古記録から端渓硯の坑名や採掘された山などの在り所、名前等の事実を系統だって調査し記録を残す。その道の検証者の一部が記し残した大秋風・・・・などの坑群名、そして在所。
これらを更に詳細に記した資料は我々の管轄とは別のこれら検証者ルートにあるのかもしれない。
しかし端渓に従事する私を含め、今回資料を調べた端渓硯廠関係者の中には資料に記された大秋風、小秋風・・・・の名を知るものは誰一人としてなく、資料に認められた文意から半辺山に在る洞=坑の名前と理解する以外には解釈のしようがない。
前段 : 肇慶現地 端渓硯廠責任者 談直訳 (他硯廠関係者談、端渓に関わる古老達の談を含む)

半辺山の名は端渓硯の採掘坑として古記録に残り、それに記された坑数も多く盛んに採掘されていた様子が窺える。
肇慶硯廠の責任者がやっと見つけた古資料は「半辺山は燗柯山=斧柯山の東方」に位置する、と理解すべき記述を残している。
この記述に現地状況・地形を合わせ考えた時、半辺山は古記録の記述通り燗柯山の東サイドに位置すると判断出来、肇慶に居住する者でない私でさえその地域は直ぐに思い浮かべる事が出来る。
それにも拘わらず現実の採掘坑としては長らく忘れられ、現地の端渓関係者の誰もが「具体的な端渓採掘の場所を示す坑名ではなく由来の説明がつかない端渓硯の産出坑として便宜的に与える便利な坑名」であると捉えていた。

古記録は半辺山坑の位置を「燗柯山=斧柯山の東方」に位置する、と理解するのが妥当な記録を残していることは前述の通りである。
正にこの地「燗柯山=斧柯山の東方」に位置するのは沙浦地域であり、沙浦地域には老坑もどき、坑仔巌坑もどき、麻子坑もどきの石紋を伴った(見た目は老坑、坑仔巌坑、麻子坑とソックリと言える)、しかし硯としての本質は著しく劣る「有洞巌」、更には北嶺の梅花坑や緑端(緑石端渓)などとよく似た(新)梅花坑、(新)緑端、やはり北嶺の宋坑と判断されることもある「宋坑もどき」の「紫端渓や二格青」の坑があり、これらの硯坑石も「老坑もどきの石紋を持つ有洞巌」などと同様に硯としての本質は著しく劣る硯石であるが「沙浦硯坑区」として活動している。

北嶺採掘地の住宅地などへの開発により沙浦硯坑区への移転を余儀なくされた北嶺各硯坑。
北嶺各坑とは事情が異なるが、南嶺の老坑、坑仔巌坑、麻子坑、結白巌、白綫岩、・・・、等々の有名坑。南嶺の有名坑は21世紀初頭、地下資源の保護を名目に全て強制閉鎖され採掘が禁止された。
これら有名坑硯石の充分な在庫を持たない硯廠は、この強制閉鎖により各有名坑もどきの石紋を持つ硯石の採掘坑「有洞巌」原石を、
北嶺の宋坑原石を持たない、或いは北嶺宋坑原石在庫を抱える硯廠からの供給が充分ではない硯廠はやはり沙浦地区二格青等の坑から採掘された硯石を流用するようになった。
この流れにより沙浦硯坑区の活況は1990年前後から関係者のみならず広く知られる事になる。
沙浦から採掘される宋坑に似た硯石の「二格青」「紫端渓」は比較的有名だがこれらの採掘を(再開)した1980年前後では「この二坑硯石は端渓ではなくその周辺地域の産出である」と説明され「端渓渓谷から産出する端渓各坑」とは確実に区別されていた。
この二坑を「(新)宋坑」と称するなど、沙浦坑区で有名坑もどきの多くの硯石が採掘されている現況は古資料に記される半辺山坑群の活況を彷彿とさせるものである。

採掘される硯石の種類、地勢等から「沙浦坑区」は近代新たに開採された端渓坑群の新開発地ではなく、
曾て半辺山坑群として活況を呈した時代があったにも拘わらず硯としての基本石質の問題で徐々に放棄され長らく見向きもされなくなった半辺山坑群の跡地であると推測できる。
そして、端渓採掘坑「半辺山(坑)」採掘の実態を知るものは途絶えたがうっすらと関係者の記憶に残った「半辺山(坑)」の名は時の流れと共に「採掘坑を特定出来ない硯石に便宜上与える坑名」として端渓鑑定者に利用され「とても便利な坑名」として現在まで生き残ってきた。
半辺山坑は歴史上の採掘坑としての記憶は関係者の間には残らず「坑名」のみがかすかに記憶され利用されてきたが、21世紀を跨ぐ時代に巻き起こった「人民の財産である地下資源(端渓原石)の保護」の大前提による「宋坑」を代表とする北嶺、「老坑」「坑仔巌坑」等々の南嶺、全ての採掘が厳しく制限され、更には全坑全面採掘禁止に至ったことにより「沙浦」坑区の安易な利便性が見直され採掘を再開、再び盛んになった。
沙浦硯坑区の硯石採掘は隆盛を見るようになったが、現地に「半辺山、半辺山坑群」と「沙浦採掘区」を結びつけ考える者はいなかった。

麻子坑と半辺山坑の位置関係:
本来の老坑、坑仔巌坑は燗柯山=斧柯山北サイド中央部の西寄りにあり、麻子坑は燗柯山=斧柯山の南方に位置する坑です。
肇慶端渓硯廠責任者に麻子坑周辺、およびその対面全てに端渓採掘坑跡の形跡が残るかどうかの調査を依頼したところ、麻子坑対面の山も含め麻子坑周辺には麻子坑以外に硯坑とおぼしき跡地を見つける事が出来ない、との調査結果を連絡してくれました。
現地で現在知り得る全てを総合的に判断する時、古い時代に半辺山が開採されていたことは事実だと考えるが麻子坑周辺にはその形跡を見つける事が出来ない、との返事でした。

見つけた資料や、知り得た現地に伝わる伝承等々の多くを検証した結果、現状では半辺山に関しては古資料で見る以外何もわからない。
そして古資料の記録では≪半辺山坑群≫と≪沙浦硯坑区≫が地理的に重なる地域であると推測出来る。以上を私見としてご報告いたします。     山口j一    
以下は、前述の資料が見つかる前、私が知り得た情報によりご案内していた半辺山記述です。
以下を取り消し前述の内容に訂正いたします。            2012年4月26日 山口j一
私が硯に興味を持ち、端渓を中心とした高名な硯の勉強を始めた1960年代半ばでは、
日本でも
「半辺山坑」とは
「端渓であることに間違いはないが産出坑を特定できない硯に便宜上与える坑名」で
「端渓産出坑の判断に困った時の便利な抜け道」の意味である、との指導を受け、そしてそのように用いられていました。

これらについて
「私の思い込み」であってはいけませんので、念には念を入れ肇慶の硯の専門家(複数)に、
「半辺山」「半辺山坑」についてその所在地などの詳細を調べて欲しいとの依頼を出しました。
肇慶から即答に近いかたちでで返ってきた返事は
「半辺山」・・・・・   その辺りのどこかの山のこと。具体的に “半辺山”は“この山”だと場所を規定する表現ではない。
「半辺山坑」・・・・  どこかの山のどこかに在る坑、でした。
と言うことで「端渓硯原石の有名採掘坑がある山」と言う意味の如き表現をされることもある「半辺山」とは端渓硯の産地、中国広州「肇慶(旧 端州)」では
特定の山や地域を指すのではなく、一般的な「いずれかの山、その辺りの山」を意味し「端渓硯原石の有名な採掘坑のひとつ」と言う意味の如き表現をされることもある「半辺山坑」とは「どこかの山にある坑、どこかその辺りの山に有る坑」を意味します。
端渓坑区 略図 
端渓硯産出坑のひとつ「半辺山坑」が在る、と言う意味での「半辺山」とは関係なく
中国 貴州 貴陽県と浙江省寧波市に「半辺山」と言う地名があります。無論、天下の銘硯「端渓」とは無縁の地名です。これら以外にも中国には「半辺山」が沢山ある様子ですがいずれも端渓産出坑とは無縁です。
≪端渓の産出坑≫とは無縁の半辺山 貴州 貴陽県 半辺山画像
≪浙江省 象山県 寧波市 半辺山≫画像
≪日本の半辺山?≫画像


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