15 社会主義経済
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 その状況が、少しずつ少しずつ改善されながらも10年ほどは続きました。

 そして、1988年に、
窒息気味だった国の経営を刷新する手段として、社会主義の中国が、自由経済を組み込んだ、「社会主義市場経済」なる実験的な経済体制を導入しました。

 これをきっかけに一気に改善が進むのです。
 変化のスピードと内容は驚くべきものでした。
 変革の時代の真っ直中なのですから、朝令暮改は当たり前、
昨夜、商社を集めて行った今後の輸出方針が、今日の昼には変わっているというようなことがよく起こりました。

 当初の戸惑いと準備期間を経て、この世界にも例のない実験経済は、1993年頃から本格的な活動を始めるのです。

 以前、 端渓硯の輸出権は、北京工芸品総公司傘下の広東省工芸品分公司だけが持つと 定められていた締め付けも全く無くなり、自由競争が容認されました。

 旧経済政策の時代には、輸出価格はおろか輸出量さえ北京総公司の規制を受けていた広東省工芸品分公司は、
自分たちの責任で
「重要な事柄を、何も決定する必要も、権利もなく」
ほとんどの部分、北京総公司が
「決めたとおりの内容で、決められた範囲の書類さえ作っていれば、 ・・・それで万事すんでいた」
どこか、近隣国のお偉い人たちが、この仕組みを参考に政治をしているとの噂もある方式でしたのが、
180度の方向転換、自由経済の競争原理の荒海に放り出されました。
 その嵐の中で、専売権を失った今までの輸出窓口と、
新たに、輸出業務を認可された企業と組み、自ら直接の輸出を始めた有力工場などが、
原価など無視したすさまじい顧客争奪競争を行い、
値引き競争の波に飲み込まれ、
挙げ句の果てに、高級品の代名詞にも使われた「端渓の硯」も一気にその値を下げ、
経済解放政策以前の価格の
3〜40分の1にまでも落ち込む信じ難い状況が生まれました。
 端渓硯の価格破壊が起こったのです。
 実際、15万円はしていた一級品の宋坑十吋の硯が、
3〜4千円にまでも下がってしまったのです。

 当時、国鉄が分社・民営化され、JRとなった頃でしたので、端渓の急激な価格崩壊を例えて、
大阪と神戸の間にJRの新会社が一気に50も出現し、際限のない価格競争に陥ったような状態と表現していました。
 正にそれが誇張と思えない状況が出現していたのです。
 この間に、

淘汰が進み、
  「百年一日のごとき、
  経済解放前の状態のまま停滞し、
  検品体制などを改めることに対応出来ない古い体質の輸出公司などは、
  新たな取引から取り残され、
  検品体制など近代国際感覚を整えた、
  輸出窓口だけが生き残ってきたのです」

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