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老坑の歴史です | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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以上が老坑の簡単な年代記です(≪「端渓」端渓のまことを伝えたい≫脱稿後の資料を加えました)。 近代では、1918年の閉鎖から半世紀以上にわたる採掘停止期間が生じています。 採掘できなかったのではなく、社会環境に大きな変化が生じ、採掘しなくなってしまったのです。 清朝末期に入る頃から光緒朝終焉の時が見え隠れしだし、最後の皇帝となる宣統帝が即位するまでに、既に、中国沿海部は諸外国の干渉と侵略に蹂躙され始め、そこに近隣に位置する肇慶周辺では硯の採掘どころではなくなっていきました。 命の問題だったのです。 この間に、辛亥革命を経て旧時代は終わりを告げ1912年に民国が誕生、 その民国は1949年、中華人民共和国として生まれ変わるのはご承知のとおりです。 国を上げて、全国民が生きていくための社会基盤の拡大・整備等々に取り組み、 国の再生・発展に努力を重ねました。 それこそ世界人口の5分の1にも達しようという国民全員の生活基盤を確立する生きるための闘いの時だったのです。 硯の採掘どころではなかったのです。 国力も一定のレベルに達し、生活の安定が確信され出した1970年、 国の代表である周恩来総理が、老坑端渓の存在を聞くに及んで、採掘が再開される方向が定められたのです。 1972年に再開された坑は、昔からの採掘坑跡(旧坑=旧入り口)を文字どおり再開したもので、作業環境は何世紀前と何ら変わるものではありませんでした。 再開後、老坑の品質は昔通り飛び抜けたものであることが確認され、再び脚光を浴びるのです。 この秀材の増産と作業環境の改善を目的に、肇慶市人民政府は旧坑坑口の真横僅か20メートル程のところに新入口(新坑)を計画しました。 1980年に新入口(新坑)は完成、新入口(新坑)の完成・開抗を待って旧坑(旧入口)からの入坑は閉鎖されます(1972年の旧坑再開以後「新入口(新坑)」からの採掘は肇慶市人民政府が実質的な老坑管理者となります)。 この新坑(新入口)開採から20年足らず採掘した後、1998年の原石盗難事件に端を発した警備強化名目で為された同年からの老坑閉鎖(事実は採掘環境の整備による過剰採掘=過剰在庫の解消が目的の閉鎖)が今(2003年1月⇒現在)に至るも継続され採掘禁止令は解除されていません。(2010年10月現在閉鎖は強化され継続されています)。 1月7日の現地からの電話では、今回閉鎖当初の予定通り、過剰在庫解消まで少なくとも後5年閉鎖は実施されるだろうとのことです。 ※捕捉 :老坑 採掘坑を強制閉鎖し盗掘等による原石在庫増を防がねばならない、この事実は「老坑原石は健在である」事を明確に示すものであり、「老坑原石枯渇説」を否定するものです。 ※新入り口を新坑、旧入り口を旧坑と呼んだがための混乱が「新坑=新入り口」と「旧坑=旧入り口」は別の場所であり採掘される石の質も違う・・・などの風評を呼ぶ、或いは言葉巧みにこれに誘導する者達が現れました。 この両入り口の地上での距離は20メートル程度、入坑し辿り着く坑底は新・旧どちらから入っても同じ場所という事実を歪曲し否定し、未だに「新入口(新坑)」と「旧坑(旧入口)」とは別個の採掘箇所である、と、この混乱を利用し誘導し何らかを計る勢力が残り、その影響もあり事実を把握できない方々が一定数として、今なお見られるのは残念なことです。 |
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広東省地砿局提供 広東省肇慶市 端硯 老坑・坑仔巌・・・ 地質調査報告書へ |
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