7 端渓伝聞書(資料)を切る
  硯の頁トップ みなせH.P.トップ

 端渓の専門書などには、老坑は常に水が満ち、採石するに当たって、
坑内から水を汲み出す作業員が、 どの部分に何人、 この場所に何人と水と闘いながら採石しているような記述が必ず出てきます。

 これらは、
その昔、硯の産地広東省に到着する術が大変な事だった時代に、
現場から遙かに離れた「みやこ」で、
端硯採掘のいろいろな伝聞の集大成を端渓の教科書にして、
後代の者が敷き写した結果なのです。
 その教科書と見なされるものの中で、比較的信頼がおける資料にしても、
現場から遙かな「みやこ」で既に、
下巌石はとんでもない秀材であることが知られ始め、
やがて採掘場所が深くなるにつれて採掘場所の特性から水巌と呼ばれるようになり、
その名が国中に轟き渡るようになっていたからこそ、現地に赴き調査した結果なのです。

 それも中央から赴いた調査員が権勢を伴って調べるのです。
 実際に端渓渓谷を訪れ老坑を記録したとされる「端渓硯史」などにしましても
現場で調査員自らが確認したことよりも
現地の役人が事前に作成して提出した資料が中心になっているようです。
 当時の「端州」(今の肇慶の旧名で肇慶一帯の地を端州と呼んだのですが当時人々は端州と端渓を同意に使用したようです。呉蘭州の端渓硯史「端渓総図」には広く端州一帯の図を端渓として掲載しています。逆に考えますと呉蘭州の知識は端州と端渓を混同する程度だったのかも知れません)の担当者たちが、「みやこ」から来た調査員たちに

 「たとえ場所は片田舎でも、 端州から採れる硯はこれだけ素晴らしい石材なのだ。
  中でも逸材との誉れも高い老坑は水に没した所から掘り出さねばならない。
 水と闘って掘り出さなければこの逸材を手にすることは出来ないのだ。
 並大抵の苦労では地上に現れないのだ」

と調査員を通じて中央の偉い人に、
この石はとても大切なものだと訴えようと、老坑の掘り出し作業を、ここぞととばかり、白髪三千丈も顔負け表現で書き起こした労作書類が事実として伝えられていったのです。

 これらは、羚羊峡と峡南の山々の形状・配置などを例にしましても
端渓硯史を書いた本人が、老坑に入らずとも、せめて実際に西江を渡って老坑坑口まで足を運んでいたら、いや、せめて西江を渡らずとも羚羊峡の見える所まで体を運んでいたら、
そして実際に羚羊峡を挟む山々や峡南の斧柯山をその目で見ていたら、
端渓硯史の羚羊峡図はこうはならなかっただろうと思える部分が少なくないことからも明らかです。
  この端渓硯史の羚羊峡図を見るだけでも、実際の山々の配置・形とはあまりにも違っているのです。

 更に、西江が増水した時の老坑の水の状態を一目でも見ていれば、
水を掻い出しながら硯材を掘っているなどとは、考えもしなかったはずです。
 西江が増水する時、 老坑に湧き出す水量はそれを掻い出せるなどとは思いもつかない、そんなことも一目瞭然の量なのです。
 長年に渡り、端渓について、何か記しておこうとした人の大多数が、
これらの伝聞集を端渓の聖書と見なし、 その内容に沿った文脈にして出版します。
 どの硯の本を見ても原典は大抵同じなのですから、
どれもこれも同じような内容になってしまうのは必定、
だからこれが正しい事だと信じてしまうのです。

増水した西江

 水を掻い出しながら採石するなどは架空の話なのです。
 現実には行われていないことが事実として認識されてしまったのです。
 常識の嘘は、本当によくある事なのです。

 実際に坑に入って原石を掘り出している職人さんに、水の汲み出しについて尋ねてみたところ、
 「西江の増水を汲み出す作業員は一人もいない。
 水を汲み出さねば入坑出来ないような時期に、坑に入るわけがない。
 それより、
 西江が増水しかけたら水を掻い出すなんて出来るわけがない」
との事でした。
 昔からそうなのかと質問したところ、
  「自分が知っている限り(先輩からの伝承も含めて)
  入坑出来ない状況下では絶対に坑に入らない、
  西江の増水期、坑は閉鎖されていて、中に入れない。
  だから、採石している時期に
  水汲み出し職人がいたことはないし
  増水した水を掻い出せると考えること自体馬鹿げている」とのことです。
 
 老坑は水巌とも呼ばれるとおり、水の底に沈んでいるのは事実です。
 しかし、それは一年の半分位の期間であり、採掘するのは、水が採石現場に達していない時なのです。
 西江の増水した水を汲み出しながら採石するようなことは、今も昔もないのです。
 老坑は、水を汲み出しながら採石するという常識は虚構です。

 伝聞集が後代に影響を与えた虚構の一つなのです。
 
湧き水

11月半ばから排水ポンプを動かさなかったときの12月26日現在の湧き水だけ(水深1.5メートル)
 この増水とは別に、山から湧き出る地下水は、渇水期には坑底に少しずつ溜まりますので、それを汲み出す作業は適時行います。
 西江が減水し、坑の底部は僅かに水が残っている、その水を汲み出す作業と減水時の湧き水を汲み出す作業は、昔も今も同様に行います。
 昔は人力で、今は電動ポンプでの違いはありますが・・・。
  この湧き水は、西江の水量に起因する増水とは違い、 放置しておいても新坑最深部から1.5メートル位しか溜まりません。
 旧坑坑底はこれより30メートル程高い位置にありますので この湧き水は旧坑には達しないのです。

 新坑は最深部周囲での採掘作業が中心になっていますので、 毎日始業前に、前日溜まった水の排水を行います。
 電動ポンプで30分から1時間です。 
 ポンプが故障したりすれば 坑底より少し上の、湧き水の影響を受けない部分を掘っていることもよくあります。 (湧き水は24時間で50センチメートル溜まりますが、一週間放置しても1.5メートルしか溜まりません。 1.5メートル溜まったらもう増えないのです。溜まっていく水の圧力で、地下に浸み込んでいく水量と、溜まる水量がほぼ同量になるようです)

 坑が水に没しない時期が採掘時期です。

 現場の職人さんの話しでは通常、条件が良ければ、
西江の水位が下がる 10月中旬以降〜5月初旬までの7ヶ月間が採掘可能時期ですが、
確実に坑に入れるのは12月〜3月の4ヶ月、それも、特に大雨でもない限りとの条件付きです。
  • (実際に1999年12月は、19日と27日の2回ご希望の専門家方を老坑へご案内しましたが、例年なら最大減水期で老坑内部もカラッと乾燥しているはずの時期、9月末の台風による大雨の影響がまだ残っていて老坑坑口近くまで水が溜まり、入坑させてくれたもののわずか15メートルほど降りられただけでした。西江も満水期に近い水量でした)。
 肇慶の古い資料=肇慶文物志=に依りますと、
西江の水位の上がる7月から10月の間は採掘不可能で、
11月〜6月の8ヶ月は採掘できるとしています。
 この採掘現場と資料との採掘可能時期が違うのは、時の移りと共に、現地の気候に差が生じて来ているからだと考えられます。
 西江の増水が、肇慶文物志に示されている増水の時期とは違ってきているのです。
 更に考えられるのは地球の温暖化による微妙な降水量と水位の変化です。
 温暖化がますます進むようだと、今の老坑採掘現場はホンの2〜3ヶ月ほどしか稼働できなくなる恐れをその時感じました。

 例年は、乾期に向かう9月終わりから10月にかけて減水が進み、
西江の水面が坑の底よりも下がり、水は坑の底部周辺にだけ溜まっている状況になると、
その時点で坑の底部に残っている水を汲み出す時に排水ポンプが稼働します。
 西江の水面が、坑の途中の高さまでしか減水していないような状況では、排水ポンプは全く役に立ちません。
  このポンプは、山の湧き水を排水する時に使用しているものです。
渇水期の坑内
 実際、1月始め頃の坑の内部は、ほとんど乾いていて水気もさほど感じませんが、3月も中旬を過ぎると、大雨など降らなくても 坑底のあちこちに水溜まりが出現しはじめます。
 早い時期に増水する年は、3月下旬頃から入坑が難しくなります。
 10月も半ば頃、水の状況を確かめて、もう入れると判断されるまで長いお休みに入るのです。

 近代的な、大容量排水ポンプを導入して、年間を通じて採掘できるようにしたらよいのに、とのご意見もよく耳にします。
 それが出来ない相談であることは、現場を一見すれば直ぐ理解できます。
 ザルで水汲みの逆で、幾ら排水しても、地の底から 壁面から 湧き出る水に勝てるわけはありません。
 風呂桶にザルをいれて、ザルの中の水を風呂桶に掻い出しているのと同じ作業になります。
 風呂と西江のスケールが圧倒的に違うだけのことです。
  「西江」の流れを変えれば、 とも言う人がありますが、
一度でも西江を見たことがある人なら、現在の土木工事の総力を挙げれば不可能ではないが、とてつもない大工事になることは、やはり、直ぐ理解できます。
 
 実現したとしても、 硯の価格は今の数万倍でも無理だという結果を招きます。

次(老坑の名前の変遷)
「 端渓のまことを伝えたい 」のトップへ